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【加藤茶】エネルギー源は“若い娘”! 心臓止まっても生涯コント

今年は芸能生活50周年。50年は、あっという間でしたね。オレが物心ついたころ、バンドマンだった親父(ギタリスト・平八郎氏)は他界していて、お袋は飲食業をやりながら、女手ひとつでオレと妹を育ててくれた。お袋から聞く親父の話に憧れて、バンドマンになろうと17歳でドラムを始めたんです。

 本当はトロンボーンをやりたかったんだけど、当時は練習用でも30万円はした。ドラムなら、スティック2本あれば膝の上に雑巾を置いて練習できたからね。

 ドリフに入団したのは1962年。最初はお笑いのパートではなく、ドラムだけだったんですが、テレビ番組で急きょコントをやることになり、そこでドカ~ンとウケてね。病みつきになって人生が一転しました。

 「8時だョ!全員集合」は69年から16年間も続きました。途中で引退した荒井注さんの後釜として、オレの付き人だった志村けんを(いかりや)長さんに逆らってメンバーに推したのは、オレと志村の笑いのセンスが同じだったから。

 志村がメンバーに加わってからは、みんなで志村をフィーチャーし、自分たちはコントで完全に死のうということになった。そこがオレたちバンドマンのいいところ。ここでベースがいくぞ! となると、周りの音をドンと落としてベースをフィーチャーする。そんな感じだったね。

 オレのコントの基本はチャプリン。彼のすごいのは、いま見ても面白いし、泣けるところ。オレたちは泣かすまではいってないけど、ドリフのコントにはペーソスがある。どこにでもいる人間がそそっかしいことをやるから、笑えて、その裏では悲しい…というね。

 いまの笑いは「一発ギャグ」がはやっているけど、あれはギャグでも何でもない。100人が100人、ド~ンと笑わなきゃギャグじゃないんですよ。漢字が書けないことや自分のバカさ加減を自虐的に売り物にしているヤツもいるけど、そういうのを使うほうもOKで、見るほうもOKとはねえ…。

 この50年間は仕事が支えで、それがすべてだった。でも、お袋が64歳で亡くなったとき、後追い自殺を考えたことがあるんですよ。お袋は高血圧で、亡くなる10日前にも脳溢血で倒れたんです。そのときにオレが病院に連れて行っていれば…と思ってね。でも、その気持ちをお坊さんに見抜かれちゃった。「お母さんはアンタに未練がないからあの世に逝ったんだ」と諭されて(自殺を)思いとどまったんです。

 その後のあれ(2003年の浮気発覚→離婚)はデカい“事故”だった。でも、若い娘と付き合うと、エネルギーになり、活力になるんですよ。いまは広島県出身の若い娘と交際中です。もちろん、現役バリバリ! とても5年前に大病したとは思えないでしょ?

 実際、5年前のスタンフォードA型大動脈解離のときは80パーセント死にかけていたというからね。手術は10時間。心臓を3時間止めてまた動かすという大手術だった。いま、オレの胸には和紙を幾重にも重ねて作られた人工の血管が入っています。和紙は腐ることも拒否反応を起こすこともない優れもの。でも、値段を聞いてびっくり。1700万円もしたんだよ。

 手術後はモルヒネ入りの痛み止めを点滴したので、何度も幻覚を見た。賽の河原で石を積みながら、ふと見ると、霞のかかった三途の川の向こうで「おいで、おいで」をしているヤツがいる。目を凝らして見ると、長さんが一生懸命呼んでるんだ。それで「ウワッ!」と慌ててこっちに戻ってきちゃった。あの人がいなかったら、きっと逝ってたでしょうね。いま思えば命の恩人です(笑)。

 いまも生かされているのは、まだ使命があるからかな。お客さんに喜んでもらう、という使命だね。メンバーはみんな年を取ったけど、いまのドリフだからこそ生まれる“間”がある。年を取ったなりの、まったりとした間で、またみんなでコントをやりたいな。

 自分が死んだときも、みんなに笑ってもらいたい。たとえば棺桶の中の花が盛り上がっていて、みんなが「何だろう?」って覗くと、棒が入ったチンチンが立ってるとか(笑)。『こいつ、死ぬまで好きだったよなぁ…』って、泣きながら笑ってもらえたらサイコー! 生まれ変わったとしても、ドリフターズの一員でありたいね。

 加藤、志村は、コント界の天才ですね。いまだ、この二人を超えるコメディアンはでてこないですね。







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